これから、南普陀寺というお寺へご案内致します。まず、南普陀寺という名前の由来をご紹介させていただきます。皆様がご存知かもしれませんが,上海の南に普陀寺というお寺があります。そこで観音様を奉っています。南普陀寺も観音様(かんのんさま)を奉(たてまつ)っています。それに南普陀寺は普陀寺の南にあります。南普陀寺と呼ばれるようになりました。
南普陀寺は福建省の4大禅林(ぜんりん)のもっとも有名なひとつです。中国のお寺の中でもお坊様の多ので,日本を含めた海外との交流往来がたくさんあります。
南普陀寺が初めて建てられたのは唐の時代、今までは約1300年が経ちました。その後何回か建てなおされましたが,現存しているものは清の時代のものです。境内では線香(せんこう)を手にした善男善女(ぜんなんぜんにょ)で溢れています。地元の人は「一度お参りすると3年間は健康に恵まれ、家族も安泰,お金が儲かる」と信じています。 南普陀寺の面積は約3万平米あり,山の勢いにより建てられました。お寺は三つの部分からなっています。ひとつはミン南仏教学院で、二つの部分があり,大学と大学院があります。大学のほうは1925年に成立されて,大学院のほうは1991年に成立されました。今、在校生徒は500人ぐらいあります。卒業生は中国の大きなお寺の管理職をしている人が多いです。もうひとつは精進(しょうじん)料理のレストランです。中国と日本は両方大乗(だいじょう)仏教ですが、規律は中国のほうが厳しいです。まず、中国のお坊さんはお酒を飲んではいけません、お肉と魚を食べてはいけません、結婚もできませんし、当然子供も作れません。昔、お坊さんが食べていた料理は精進料理と言います、材料は野菜とか、茸とか豆、それから豆で作られた豆腐があります。昔は精進領地はお粗末な料理で、貧しいと思われていました。今事情は変わりました。お坊さん、仏教の信者(しんじゃ)だけではなく、普通の人もよく食べています。健康食品だと思われています。今日の観光が終わったら、精進料理にご案内致します。精進料理にはお肉がぜんぜん使っていませんから、植物油をたくさん入れてありますから、日本の方が油濃いと思うかもしれませんが、お醤油とかお酢、タレをつけて、召し上がっみてください。今日観光は主に殿堂のほうへご案内致します。殿堂は主に天王殿(てんのうでん)、鐘楼(しょうろう)と鼓楼(ころう)、大雄宝殿(だいゆうほうでん)、大悲(だいひ)殿、蔵経閣の五つの殿堂(でんどう)からなっています。これからひとつひとつご紹介いたします。
今ご覧になった殿堂が天王殿です。ここには四天王(してんのう)が飾られています。仏教思想によりますと地球は四つの部分からなり、それぞれの部分を支配するのが四天王です。インド仏教では、世界を構成する基本的物質を{地、水、風、火}の四種類にしています。四天王が持っているのは全て魔法の武器で、琵琶(びわ)は地を、宝剣(ほうけん)は火を、傘は風を、龍は水を象徴しています。天王の足元に踏みつけられているのはそれぞれ貪欲、贅沢、おろか、性愛を象徴する邪鬼です。これらは出家した人にとっては戒(いまし)めなければならないものなのです。真中には布袋和尚が座っています。布袋和尚はいつも布袋を持って、あちこちで布教(ふきょう)しながら布施(ひせ)を乞いますので、「布袋和尚」と呼ばれるようになります下。言い伝えによりますと、和尚は臨終(りんじゅ)を迎えた時、大樹(たいじゅ)の下に座り、「死んだらきっと弥勒仏(ミロクぶつ)に生まれ変わる」とぶつぶつ呟(つぶや)いたそうです。それで、人々は布袋和尚をミロクと称するようになりました。ミロクは将来の世界を救うという未来仏で、本来の意味は「慈悲」です。布袋和尚をここに飾った意味は二つあります。ひとつは和尚はいつでもどこでもだれを見てもにこにこしていますから、仏様のお使いとして、人間たちの奉納物(ほうのうぶつ)や供え物をここで受け取るわけです。お参りに来た人達は先ず奉納物をここに置いてから、後ろの殿堂に行き、お釈迦様(しゃかさま)に線香を上げるのです。もうひとつは布袋和尚は常にっ微笑みを絶やさないので、「門を開けると喜びが来る」という意味からここに置いたのです。
ミクロ仏の後ろに置いてあるのは「韋駄天(いだてん)」です。韋駄天はお釈迦様の弟子(でし)で、お釈迦様が涅槃(ねはん)なさった後、その仏舎利(ぶっしゃり)は塔中に置かれ手いました。当時お釈迦様の仏舎利を持つ人が仏教の正統(せいとう)の教えを守るものであると言われていました。伝説ではある日異教徒(いきょうと)にこの仏舎利が盗(ぬす)み去られてしまいました。韋駄天はすぐ様相の早い足で追いかけ、仏舎利を取り戻すという手柄を立てたので、32の守護神(しゅごじん)の中で第一の守護神に封(ふう)じられました。韋駄天が釈迦像と向かい合っています。それはお釈迦様を守るという意味であります。韋駄天の手の中に金鋼杖(こんこうじょう)を持っていますが、その持ち方でこのお寺が裕福(ゆうふく)であるかどうかは分かります。今のような持ち方、地面に指している持ち方は豊かなお寺ではありませんから、外からきたお坊さんはここで泊まったり、食事をしたりするのがお金が要ります。もし両手の上においてあるような持ち方でしたら、三日間の
うち、外からきたお坊さんに無料で食事と宿泊を提供することができます。
南普陀寺は作られたときはお金がとっていましたが、今はサービスできるようになりました。
天王殿の後ろは対称的にある建物は鐘楼と鼓楼で、左側に鐘右側に太鼓が置かれています。普通は朝に鐘を打ち、夕方に太鼓を叩きますが、大きな宗教(しゅうきょう)儀式が行われた時には鐘と太鼓を一斉に打ち鳴らし、荘厳(そうごん)な雰囲気を作ります。鼓楼と鐘楼で方向が分かります。鐘楼と鼓楼は中国のお寺で欠けないもので、どんな小さなお寺でもあります。
もっと後ろに行きますと、大雄宝殿になります。大雄宝殿は唐の時代に建てられたものです。1955年に一度立て直されました。ここはお寺の心臓で、いつまでも鐘の音(ね)が消えず、灯(ひも)しが光っています。和尚さんが儀式に行うときにお邪魔されないように門を閉めていますから、外からご覧になってください。
現在殿内には三体仏を安置しています。真中がお釈迦様、右側が阿弥陀(あみだ)仏で、左側が薬師仏(やくしぶっつ)です。お釈迦様は2500年前に生まれ、出家(しゅっけ)して、修行(しゅぎょう)を積み、仏教を創立しました。薬師物はインド医薬を創立した人で、その手の形は布施を表し、貧困者(ひんこんしゃ)には金品(きんひん)を恵み、病気を無償(むしょう)で治すことを意味するものです(右手に持っているのは薬を入れる茶碗です)。阿弥陀仏は極楽(きゅくらく)界を司(つかさど)る応接仏です。極楽浄土(じょうど)に入ろうとする人はだれでも阿弥陀仏の許しを得なければなりません。出家した僧(そう)たちは皆極楽浄土に入るのを最高の目的としていますから、いつでも「南無(なむ)阿弥陀仏」と唱えるのです。お釈迦様の手前にある仏像(ぶつぞう)は阿南(あなん)と迦葉(かよう)です。二人ともお釈迦様の弟子です。もともとお釈迦様には五人の弟子がいたのですが、苦労に耐え切れない三人が逃げてしまいましたので、二人しか残されていません。お釈迦様は片方の手で天を指し、もう片方の手で地を指していますが、これは「天上天下(てんじょうてんか)、唯我独尊(ただわれどくそん)」、つまり、世界中で自分が一番偉いということを意味しています。お釈迦様の前は千手(千眼)観音様です。千手観音は世界中全ての人たちの苦痛と災(わざわ)いを洞察し、そういう人々を救うと言われています。
大雄宝殿の壁には壁画(へきが)がたくさんありますが、内容としては一部分は風景で、
一部分はお釈迦様の一生を描いたものです。大雄宝殿の建築材料もアモイ当たりの石材で頑丈ですし、一つの特徴とも言えます。
殿の後ろに仏像が三体あります。真中は阿弥陀仏、無量寿仏(むりょうじゅぶつ)で、左側は観音菩薩(かんのんぼさつ)で、右側は大勢至(だいせいし)菩薩です。ここの観音菩薩は一本木彫(きぼ)りで、とても珍しいです。大勢至は人間を地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)から救うことができます。
この両側には十八羅漢(らかん)が置かれています。片方に各9体あります。伝説によりますと、この十八羅漢は昔皆強盗(ごうとう)だったのですが、お釈迦様が彼らを善人(ぜんにん)に導(みちび)くために弟子にしたのです。その後彼らはまったく心を改め、お釈迦様の期待通りに世のために布施をし、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)したそうです。人間の苦痛を聞いて上げますから、羅漢の耳はみんな大きく、長くなっています。
皆様、大悲殿に着きました。大悲殿は南普陀寺のもっとも高いです。高い石台と三重の八角堂が特徴です。ここで観音様しか奉っていません。それも南普陀寺の由来です。大悲殿は清代で建てたもので、1920年に火災で焼けられまして、1962年に建てなおされました。高さは20メ-トルです。中に仏像が4体置かれています。真中には両手観音で、後ろの3体は千手観音です。千手観音はもともと唐の時代の皇帝の三番目の娘さんでした。上の二人はとても口がうまいですから、よく皇帝に好かれていましたが、三番目は無口ですので、すかれていませんでした。ある日その皇帝が病気にかかって、お医者さんに言われたのは病気を治すには人の手と目が必要だと、上の娘さんがそれを聞いて、逃げまして、三番目の娘さんはお父さんを救うために自分の手と目を出しました。神様は感動しまして、お父さんのためには目と手がなくなりましたから、今度は千の目と千の手を上げましょうという事柄がありますから、千手観音の由来だそうです。千手観音の各レの形が違っていて、それぞれ意味が違います。病気にかかった人を健康にする手の形もあり、貧乏(びんぼう)な人を裕福にさせる手の形などいろいろあります。千手観音は本当は千の手と千の目がないです。40の手があります。一つの手には一つの目がついています。一つの手と目は25種類の意味を持っていますから、40*(かける)25は千になりますから,千手観音と呼ばれています。
最後にご覧になるのは蔵経閣です。建物は上の屋根は中国式で、下の構造は西洋式です。二階あり、一階は法堂(はっとう)で、宗教儀式を行うところです。二階は経書と文物がたくさん置かれています。そのうち日本から頂いた経書「日本大蔵経」も収集されています。
ピルマの玉仏(玉の仏像)や宋代の鐘や香炉(こうろ)などが保存されています。もうひとつこのお寺の法物はありますが、清の時代、今から約200年前お坊さんの血と金の粉と混ぜて、字を書いた経書です。人間は塩を食べていますから、血が出たらすぐ黒くんります。そのお坊さんは自分の血で書いた字が黒くならないように二週間で塩を食べませんでした。その字が今でも鮮やかな色をしています。
ここの裏山には数多くの刻石(こくいし?こくせき?)があり、内容はアモイの歴史とか、南普陀寺の歴史とか南普陀寺が作り直したことがあります。今皆様がご覧になっているのはもっとも大きいです。この仏は清の僧侶(そうりょ)が書いたもので、高さ4メ-トル、幅が3メ-トルあります。この字は曲がって書いたところもありますし、まっすぐ書いたところもあります。まっすぐ書かれたところは幅が狭いところもあり、幅が広いところもあります。この字は人の人生を象徴していると言われています。まず、人偏(にんべん)は人で、左の曲がるところは人生の中で失敗したこと、幅狭く、まっすく書かれたところは人生の中での小さい成功、幅広くまっすぐ書かれたところは大成功のことです。人間は人生の中で失敗したり小さい成功をしたりしますが、心の中で仏が存在していれば、最後には必ず大成功できるということです。後ろの人はこの字に対し、もうひとつ解釈がありますが、この字の右側はべ-ドルのマ-クににていますから、金次第の世界ですから、人間はお金を持っていれば、大成功ということです。ものすごく現実的ですが、それなりの道理があるとも言えます。それはジョークです。
最後には塔のほうへご案内致しますが、この塔の独特の使い方があります。あそこで金色の紙を燃やしているがいますが、それはなくなった人がいい生活ができるにはマンションも車も電気製品も必要です。そういうものを金色の紙で作って送る人もいます。亡くなった人がいい生活がしてもらいたい気持ちが入っています。 南普陀寺の案内はここまでにします。 以上。
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